2011年10月1日土曜日

何度でも船に乗る

ヨナ書 1章1-4節

みなさんは、ピノキオのお話を知っていますか?
おじいさんが木で造った子どもの人形が、命を持って動き出す、あの鼻が長くなってしまう人形のお話しです。ディズニーでアニメが作られているので、そのDVDや絵本で知っている人も多いかもしれませんが、実は、ピノキオのお話というのは、聖書のお話しがもとになっています。旧約聖書の中に出てくる、ヨナという人のお話しです。

ディズニーのアニメは、実はコッローディというイタリアの作家さんの書いた原作とはだいぶん違っているのですのですが、そこはまぁいいことにしまして、このディズニーのピノキオの物語を見ていきますと、ピノキオは、かなり困った子どもとして描かれています。
貧しいおじいさんが1着しかない上着を売って、学校に行くための教科書を買ってきてくれたのに、ピノキオはその教科書を売り払って、それでお芝居を見に行ったり、学校に行かずにおもちゃ屋さんに行ったり、自分の好きなことばかりして、おじいさんを悲しませるのです。そのあげくピノキオは、悪いウソを沢山ついて、女神さまに、鼻をどんどん長くされてしまったのでした。

でも、考えてみれば、ピノキオも可哀想だったのだのかもしれません。ピノキオは、人間の子どもになりたかったのに、自分は木で出来た人形の姿をしているのです。お父さんやお母さんもおらず、ピノキオの家族は、貧乏で年を取ったおじいさん一人だけでした。ピノキオが、おじいさんを悲しませるような困ったことばかりするのは、ピノキオが、本当の人間の子どもではない自分のことを、なかなか好きになれなかったからだったのかもしれません。それで、ピノキオは、おじいさんを悲しませるようなことばかり繰り返してしまうのです。

では、聖書のお話しに出てくる主人公のヨナの方は、どうだったでしょうか。
ある日ヨナは、神さまから大切な仕事を任されます。その大事な仕事を任されたヨナがどう思ったかというと、ヨナは、こんな大事な仕事は、自分には無理だ、とても出来ない、というふうに思い込んでしまうのです。それでヨナは、船に乗ってその仕事に向かう振りをして、全然反対の方向を向いて、逃げ出してしまいます。ヨナもまた、自分に自信のもてない人だったのかもしれません。

それで、神さまから逃げだそうとしたヨナがどうなったかというと、神さまから逃げ出すために乗り込んだ船が、大嵐にあって、その結果ヨナは船乗りたちに、突き落とされて、とうとう嵐の海に沈んでいくことになります。そして、あぁ、ダメだ、もう死ぬ、と思った瞬間に、海の底に、大きな魚がやってきて、パクリ、とヨナを呑み込んだのでした。

ちょうどこの辺りが、ディズニーのピノキオともよく似ています。困ったことばかりを繰り返して、悪い人に騙されて、ピノキオはサーカス団に売り飛ばされてしまいます。そして、そのサーカス団でも、うまくいかなくなったピノキオは、放り出されて、そして海の中に突き落とされてしまうのです。そして、ピノキオも、同じように大きな魚に、パクリ、と呑み込まれました。

その魚の中で、ピノキオは誰にあったでしょうか。なんと、貧乏でお年寄りの、たったひとりの家族であるおじいさんでした。おじいさんは、ピノキオのことを心配して心配して、あちこち遠いところまで、探し回りました。そして、くたくたになるまで、あちこち探し歩いたあげくに、海に落っこちて、この大きなクジラに飲み込まれてしまったのでした。ピノキオも、そんなところでおじいさんに出会って、とっても嬉しく思いましたが、おじいさんは、ピノキオを見つけてもっと大喜びしました。なんといっても、フラフラになるまで、大事なピノキオを探し続けてきたのです。ピノキオは、ピノキオはそれから、おじいさんをクジラの中から救い出すために大活躍をしました。ピノキオは、今までおじいさんが、いままでどれだけ自分のことを大事に思ってくれていたかに、クジラのお腹の中ではじめて気がついたのです。そして一所懸命頑張って、とうとう無事におじいさんと一緒に、クジラのお腹の中から、脱出することができたのでした。そして、ピノキオは、今度こそ、しゃべる人形ではなくて、ほんとうの人間の子どもになりました。そして、おじいさんと一緒に、いつまでも仲良く暮らしました、というわけです。ディズニーでは、こんなふうに、ピノキオはお利口さんな子どもになることができて、とってもハッピーエンドに終わっています。

では、聖書のお話しのヨナの方はどうなったでしょうか。
ヨナも、ピノキオと同じように、大きな魚に呑み込まれて、そこで、神さまから逃げ出したことを反省して、神さまにお祈りします。すると、神さまに命じられたこの魚は、陸にヨナを吐き出すわけです。それで今度は、ヨナは、最初に神さまに命じられた、大切な仕事をしに出かけていくのです。それで、ヨナは無事に大事なお仕事をこなして、めでたしめでたし、になったかというと、実は聖書のお話しはそうはなっていません。わたしたちの世の中と同じように、聖書も、そう簡単にはハッピーエンドにならないのです。

ヨナは、神さまの仕事をしに出かけていくわけですけれど、その途中で神さまに文句を言いはじめるのです。それで、そんなんだったら、もう嫌だ。もう死んだ方がましだから、神さまどうか自分を殺してください、とまでいって、神さま相手に文句をぶちまけるのです。それで、神さまはヨナに、そんなことを言っているけど、そんなこと、本気で思ってるの? そんなにいつでも自分が正しい、と言えますか?といって、ヨナは神さまから叱られるのです。聖書のお話しは、じつはヨナが叱られるところで終わっていて、ヨナが心を入れ替えました、というところまでは書いてありません。だから、それからヨナが心を入れ替えて、よい大人になったのか、神さまの言うことを聴かない、聞き分けのない大人だったのか、その結論は書かれていません。

そして、それはわたしたちの毎日の生活でも、おんなじだろうと思うのです。わたしたちの生活は、ディズニーの映画のように、そんなに簡単にハッピーエンドにはなりません。わたしたちは、何回でも、失敗して、何回でも、誰かから叱られたり、そして励まされたりして、わたしたちの生活は続いていくわけです。けれども、何回船に乗って逃げ出しても、何回きびしく叱られても、それでも、わたしたちのことを励まして、もう一回チャレンジしなさい、と神さまはチャンスをくださいます。神さまは、わたしたちよりも、忍耐強い方ですから、何度失敗してもいいから、自信を持って、もう一回チャレンジしなさい、と、わたしたちのことを待ち続けてくださっているに違いない。わたしは、聖書のヨナのお話を読んで、神さまはそういうふう言っておられるのだ、と信じているのです。
                                                             <9月25日 ディアコニアサンデー メッセージ>

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