2016年10月24日月曜日

健軍情報97-教会の復旧も道半ば


土曜日、甲佐教会の主日礼拝。
礼拝での説教中に降ってきたのは、
天からの聖霊ではなくて、天井からの雨漏りだった。
甲佐教会は4月16日の地震で屋根の棟瓦が落下して、
他の瓦も痛んでしまった。
すぐに屋根屋を呼んで見積もりをとり、
ブルーシートを張ってらったのだが、
張り方が甘かったためシートが剥がれかけている。
何度も連絡して、しっかり貼りなおしてもらうように
依頼していたのだ。
それなのに、屋根屋も仕事が詰まっているらしく、
何度連絡しても、なしのつぶて。シートはそのまま。
そうこうしているうちに、この度の秋雨で、
礼拝中の雨漏り、と相なったのであった。
とりあえず、バケツで雨を受けて、
礼拝後に屋根裏を覗いてみる。
屋根のすき間から見事に空が覗いている。
外に出て確認してみると、やはりブルーシートは大きく
めくれあがっている。
どうするかを役員さん方と相談するのだが、
今頼んでいる屋根屋も、年内はとても工事が出来ないという。
もう一度、ブルーシートの張り直しを依頼し、
それでも対応がすすまないなら、別の業者に変更することも検討する。
幸い、全国の方々のご厚意により、大方の修理費の目処は立っているのだが、
人件費も資材の費用も高騰していて工事の予定すら立たない。
しかし、そんなご家庭は県内に何千人もおられるはず。
それでも、立ち止まっているわけにはいかないのだ。
翌、日曜日。
南熊本群の合同役員会のために松橋教会に赴く。
松橋教会は、お隣のボーリング場のブロック塀の当会により、
エアコンの室外機と、礼拝堂の外壁に、大きな損傷を受けた。
また、地震のあとの様々な事情により、
心温かくこの教会の牧会を担ってくださっていた
ボーマン先生を、米国へと送り出した。
幸い室外機の方は、これも全国のみなさんからの義援金により、
復旧の工事が終わり、エアコンの使用も可能になったのだが、
外壁の方は、業者の段取りがつかないままだ。
先日の台風では、横殴りの雨で、
このすき間からも雨水が染みこんできたという。
そう、それでも立ち止まってはいられない。
家屋の修理の見通しがつかずに、
雨漏りや、家の傾きに難儀しているお宅は、
教会関係でも少なくない。
神水教会の会館も、今頃になって
建物に感じる振動が大きくなった気がする、ということだから、
熊本教会、大江教会の被害は云うまでもなく、
地震から半年がたっても、なかなか被害の全貌というのも、
つかみきれてはいないのだ。
なんにせよ、物事は一気には片付かない。
ねばり強く、1歩いっぽを、できたしこで歩むほかないということなのだ。

近く、呼びかけがあるはずの、被災地救援のための
ルーテル教会の第二次募金にも、どうぞご注目下さい。

2016年10月22日土曜日

健軍情報96-震災復興チャリティーバザー

例年、たくさんの方々においでいただいている
「健軍教会バザー」
今年度は、収益の全額を被災者支援のために用いる
「震災復興チャリティーバザー」として行われます。
チラシにもありますように、主な献げ先は、次の通り。
 
①被災者学生生徒奨学金のため
②被災地の障がい者支援のため
③九州学院ブラウンチャペル と
    ルーテル学院阿蘇山荘の復旧のため
 
ぜひ、おでかけください。
献品・古着・お手伝いのお申し出を歓迎いたします。

食券をお求めの方は、10/30までに教会でお求め下さい。
教会までお問い合わせ下さい。
教会バザー2015
屋内売り場
 
 
 
 

2016年10月21日金曜日

「男声の魅力Ⅲ」岩本貴文さん

ラスカーラ・オペラ協会でも活躍なさる
岩本貴文さんのソロコンサート。
文字通り男声の魅力を、存分にお楽しみ下さい。
席上カンパは、全額、
熊本地震の被災者支援のために用いられます。


2016年 召天者記念礼拝のご案内


2016年10月20日木曜日

健軍情報95-阿蘇を行く



阿蘇大橋の崩落現場
べつに震災から半年だから、という訳ではないのだが、
ようやく休み取れたので、阿蘇をまわる長躯のドライブに出た。
国道57号線から二重峠を越えて赤水に入るミルクロード。
阿蘇大橋があれば、なんなく阿蘇に入れるのだが、
迂回ルートは工事車両が多い上に
対面通行の峠越えのため、渋滞気味で時間がかかる。
このルートで仕事に通う方々には、なかなか酷な通勤路だろう。
ミルクロードから五岳を臨む
赤水から南下し、閉鎖が続いている
東海大学農学部キャンパスのある南阿蘇村黒川地区に入る。
学生たちは、震災後に熊本市内に移り、
仮のキャンパスで学んでいて、
彼女・彼らが暮らしたアパートや下宿群は、
急ぎ再建される必然性のないまま、哀しい姿をさらしている。
黒川地区
さらに、以前は行くことが出来なかった阿蘇大橋のたもとへ。
半年前の4月16日の明け方、避難していた駐車場にひっぱりだして
スイッチを入れたテレビに映し出されたこの地の映像に衝撃を受け、
被災地の生活者としての活動を覚悟したものだった。

 対岸では、大型の工事車両が土砂崩れの後の復旧工事にあたっている。
二次災害を警戒しながらの恐る恐るの作業にみえる。
此岸からだとそれらが小さなミニカーのようだ。
あたり前のことだが、自然の力の大きさと、
人間の力の頼りなさを、思い知らさせるような災害現場。
この地で命を落とした青年を悼む花束が、風に揺れていた。
対岸の工事車両が豆粒のように見える
 道をおりかえして北上。
噴火のために入山規制が続く阿蘇五岳を右手に見ながら、
57号線に沿って阿蘇神社にむかう。
途中、道の駅阿蘇で休憩を取った。
九州・沖縄道の駅連絡会で最優秀賞を獲得したというだけあって、
なかなか魅力的な道の駅だ。
地元のパン屋や饅頭屋など、地域の商店の品が棚を埋めており、
地元高校生がプロデュースしたお弁当などもあって充実した品揃え。
お腹が減っていた時間帯だったこともあって目移りする。
おかげで念頭にあった阿蘇の赤牛丼は後日の楽しみとなり、
お座敷にしつらえたイートインで、のんびりお昼休憩となった。
パン・饅頭・弁当類が豊富
午後、さらに車を東に走らせると、乙姫地区をすぎたあたりから、
なんとなくあたりの景色がねずみ色がかっていく。
いや、ねずみ色でもグレーでもなく、
これは文字通りの灰色なのだ。
窓を開けて走ると、そこはかとなく火山の臭いがする。
阿蘇の噴火から1週間。
この間、雨も降ったのだが、火山の降灰は水を含むと、
そのまま固まってしまい、高圧洗浄機でないとなかなか綺麗にならない。
ガラス質を含んでいるとかで、下手にタワシでこすったり
フロントグラスにワイパーをかけたりすると、
表面に傷がついてしまうのだ。
この日も植え込みを洗浄する人々の姿があった
これまで、灰が降ることは珍しくなかったのだけれど、
この辺りで小石が降ったのとは初めてとのことだという。
おかげで今日は、草千里など山の中の方には入っていけないが、
カルデラ内では普通に数千人の人たちの生活が営まれている。
秋は、阿蘇がほんとうに気持ちのよい季節。
観光の被害が大きくなければよいのだが、
課題は、観光客の4割を占めていた韓国からのツアー客。
地震がほとんどない韓国人にとって、地震の不安は相当らしく、
地震被害を目にしたくないと、敬遠されているのだという。
地震から半年。なんとか開店にこぎつけても
お客さんが戻ってこなければ、そんなに長くは持ちこたえられない。
日本三大楼門に数えられた楼門も倒壊
目的地のひとつ、阿蘇神社。
阿蘇神社は、全国に450社ある阿蘇神社の総本社で、
西日本でも有数の歴史を誇るが、
楼門や社殿をはじめ、今回の地震で大きな被害に遭った。
 
ちなみに、健軍教会の名前の由来でもある、教会近隣の健軍神社は、
阿蘇神社の別宮であって、かつては健軍宮(たけみやぐう)と呼ばれていた。
肥後国の中心が阿蘇から熊本に移っていく経過のなかで、
阿蘇への入口にあたる熊本東部に建立されたという経緯があり、
市内ではもっとも歴史の長い神社らしい。
というわけで、「健軍」という地名は、
別にここに自衛隊の駐屯地があるからではないのだ。
さて、この阿蘇神社の門前町商店街は、元気がいいことで知られている。
店舗の経営もしっかり後継者にバトンタッチされていて、
地域の宝である阿蘇神社の被害が甚大であっても、
まったくめげている気配がない。
商店ごとに湧き水を利用した趣のある水基が整備されていて、
通りをぶらついてもあきることがない。
旧洋裁女学校の木造校舎を再利用したギャラリーを再訪したが、
イギリスから仕入れてきたというアンティーク雑貨や
ステンドグラスが沢山並べられていて、
午後の陽射しをやわらかく溶かしていた。
旧洋裁女学校跡
阿蘇神社からの帰路、57号線から265号線に入り、
根子岳を回り込んで高森を経由するルートを行く。
マフィンの美味しい馴染みのカフェに立ちよって午後のお茶を楽しむ。
店が開いているか心配しながら訪ねたのだが、
5月早々から店を開けて頑張ってきたとのこと。
でも、おなじみの番犬リリィは、ちょっと白髪が増えたようだった。

ぐるっと阿蘇を一周した格好で、帰りは久木野から39号線。
南側から阿蘇に入るもうひとつの迂回路、
グリーンロードから津森に抜けるルートをとる。
この季節だけの特別な輝きは、銀色になびくススキの海。
この波うつススキの美しさは、どうしたって写真には収まらない。
でも、いろんな人に知ってもらいたい、秋の阿蘇の特別な景色。
 
そういえば、秋の阿蘇をうつくしく描き出した
行定勲さんの、映画「うつくしいひと」。
健軍教会でもチャリティー上映会をさせていただいたが、
続編の製作が決まったという。
いまだに、多くの傷みとともにある熊本だが、
より添いと、励ましのあいだの揺らぎを、
うつくしく描き出す映画であってほしい。
さて、いろいろ報告すべき事もあるのだが、
思うようにはブログの更新がはかどらず、
休日の報告なのに幾日も遅くなってしまった。
ま、これも"できたしこ"でいくしかないようで・・・。

2016年10月6日木曜日

健軍情報94-公費解体

今回の台風の被害の大きかった地域の方々には
早期の立ち直りをお祈りする思いだが、
今回も熊本直撃を回避してくれたので本当にほっとしている。
9月 益城町惣領
益城町では、倒壊しかかった家屋がそのまま晒されているし、
倒壊してしまった家屋のガレキが、
家が建っていたそのままの場所で、山になっている。
それてそれらは、当分そのままそこにある他ない、
いわば家の亡骸たちだ。
9月 益城町津森
何十年にもわたって家族の生活を支えてきた愛着のある家屋が、
葬られることのないままに、亡骸をさらしている。
もし、台風がほんとうに熊本を直撃したなら、
その家の亡骸たちが、今度は凶器となって町中に飛散したに違いない。
そんなことが容易に想像されるのだが、
誰も声高に云わないのは、それがどうしようもないことだからだろうか。
台風がそれてくれるようにと、祈る以外に手がないからか。
 
ここのところブログを更新する余裕がなかったので、
少し前の記事の紹介になってしまって恐縮だが、
熊本地震の損壊した住宅の解体を行政に依頼する、
いわゆる「公費解体」の申請は、
受け付けたものだけで県内18000棟であり、
そのうち解体が終わったのは、2割にも満たないという。
9月23日 クマニチ
この進捗率は県内全域のものだが、
益城町ではわずか3.9%!
どうりで益城の様子は半年前のまんまなはずだ。
 
ちなみに、解体がすんで更地が増えつつあると感じられる
熊本市内で14.2%。
昨日からライトハウスの裏手で解体工事にかかっていた業者さんの話によると、
3ヶ月先までは仕事が埋まっているという。
今朝 ライトハウスの裏手
台風の間隙を縫っての出張帰り、飛行機から眺めた様子では、
まだまだブルーシートだらけの地域も多かったので、
台風がそれて胸をなで下ろした方々も多かったに違いない。
教会員さんが頼んだ屋根の修理、先日ようやく順番が回ってきたのだが、
来てくれたのは、佐賀県の屋根屋さんだったという。
佐賀から出張してでてくるのだから、支払い費用が、
相場よりふくらんでしまうのも無理はない。
昨夕 熊本市東区上空  拡大表示するとブルーシートが
解体がなかなか進まないのは、業者さんがつかまらないのと同時に、
震災がれきの処分場のキャパシティが足りていないからだ。
これから県内で3万棟の家屋が解体されていく。
行政が見込む解体の終了は、2018年の春。
それまで、益城の子どもたちも大人たちも
自分たちの家屋の骸と向き合い続けるほかはない。
 
なんともしんどいことだ。

2016年10月5日水曜日

ダイドーとエネアス

バロック音楽に興味がなければ、
  表題にも聴き覚えがないかもしれませんが、
イギリス・バロック音楽における記念碑的作品であるとのこと。
その公演が、なんと熊本である。
しかも、健軍教会が会場です。
 
 
古典楽器を用いた音楽公演に積極的に取り組んでおられる
グループ葦のみなさんが、ゲストを迎えて上演すべく、
熱心に練習に取り組んでおられます。
音楽監督は、昨年も健軍教会でのコンサートに参加された
オランダ在住のリュート奏者 野入志津子さん。
 
このたび、素敵なチラシが出来上がってきましたので
紹介します。
熊本公演は11月26日だそうです。



熊本地震93-シプリアン・カツァリス氏

世界的なピアニスト、
シプリアン・カツァリサさんのチャリティーコンサート、
10日、日曜日の午後3時から、ルーテル学院中高の礼拝堂にて。
今回、被災地のために申し出て、
熊本まで足を運んで下さることになったそうです。
なかなか聴けない演奏家の緊急来熊だそうですから、
ぜひ、お出かけ下さい。
プロフィール

シプリアン・カツァリス Cyprien KatsarisPiano

1951年マルセーユ生まれ。4歳からピアノを学ぶ。パリ・コンセルヴァトワールを首席で卒業、アルベール・ルーセル財団賞1985年ワルシャワで「フレデリック・ショパン・ディスク・グランプリ賞、1984年および1989年ブダペで「フランツ・リスト受賞。70年チャイコフスキー国際、72年エリザベート王妃国際コンクール入賞、74年ジョルジュ・シフラ国際コンクール優勝。・ディスク・グランプリ賞」、1986年「ブリティッシュ・ミュージック・リテイラーズ・アソシエーション(British Music Retailer’s Association)賞」、1984年ドイツでベートーヴェン作曲/リスト編曲の「交響曲第九番」で「レコード・オブ・ザ・イヤー賞」の各賞を受賞したテルデックとの録音を始め、これまでに、ソニー・クラシカル、EMI、ドイチェ・グラモフォン、BMG-RCA、デッカ、パヴァーヌなどと数多くの録音を行い、現在は自身のレーベル「PIANO 21」で録音を行っている。 

 1992年、NHKはカツァリスと共同で、ショパンについてのマスタークラスと演奏を含む、13回シリーズの番組を制作。19991017日、フレデリック・ショパン没後150周年当日、カーネギー・ホールで開催された、全曲ショパンプログラムによるリサイタルでは、ニューヨークの聴衆からスタンディング・オベーションが起こった。その他、これまでにオーマンディ、バーンスタイン、ドラティ、ミュンヒンガー、アーノンクール、インバルベルリン・フィル、フィラデルフィア管コンセルトヘボウ管などと共演。 

 また、ショパン(1990年ワルシャワ)、リスト(1996年ユトレヒト)、ヴァンドーム賞(2000年パリ)、ロン=ティボー(2001年)、ベートーヴェン(2005年ボン)の国際コンクールで審査員を務めたカツァリスは、1977年、ルクセンブルクのエヒテルナッハ国際音楽祭の芸術監督に任命され、同年「カメルーン勲爵士(Knight of Merit of Cameroon)」、1977年に「ユネスコ平和芸術家(Artist of Unesco for Peace)」(1977年)、2000年にフランス政府より「芸術文学勲爵士(Knight of the Order of Arts and Letters)」を授与。更に、2001年には「パリ市ヴェルメイユ・メダル(Vermeil Medal of the City of Paris)」を授与されている。20063月、ワイマールにあるフランツ・リストの家でリストが亡くなった1886年に最後にピアノを教えて以来、ピアニストとして初めてマスタークラスを開催した

 

二村 英仁Eijin Nimura (Violin

東京生まれ。4歳よりヴァイオリンを始める。9歳から16歳まで毎夏渡米し、ジュリアード音楽院の故ドロシー・ディレイ女史に個人教授を受けた。11歳の時に名指揮者故ユージン・オーマンディー氏に激賞され将来を嘱望される。東京芸術大学附属高校を経て同大学卒業。1994年パガニーニ国際コンクール第2位。1995年日本国際音楽コンクール第1位。その他幼少の頃よりコンクールにて優勝。1996年出光音楽賞受賞。主に海外において演奏活動を開始し、欧州の重要なホールにて成功をおさめてきた。チャリティー・コンサートへの参加も積極的に行ない、紛争後のボスニア・ヘルツェゴビナ国内にある職業復帰訓練所への義手・義足の多数寄付など多くの社会活動が認められ、1998年国連教育科学文化機関(UNESCO)より日本人として初の「ユネスコ平和芸術家」に任命された。その後もサラエボ・コソボ・パレスチナ等で演奏。「徹子の部屋」「筑紫哲也NEWS 23」「題名のない音楽会」「スタジオパーク」「東急ジルベスターコンサート」等の出演をはじめ多数のテレビ・雑誌等のメディアに取り上げられた他、NHKドラマシリーズ「夢みる葡萄」のメインテーマやエンディングテーマ等の演奏も手懸け、2004年にはニューズウィーク誌「世界が尊敬する日本人100人」に選ばれた。これまでに国内主要オーケストラをはじめ、海外オーケストラとの数多くのコンチェルト共演を重ね、華々しいキャリアを築いている一方で、「ユネスコ平和芸術家」として音楽を通じての社会貢献活動に取り組んできた。現在は日本ユネスコ協会連盟が行なっている「東日本大震災子ども支援募金」協力のため、全国各地を積極的に演奏して廻っている。201211月“芸術による世界平和への貢献”を称えられ、イスラエルより「世界平和親善大使」の称号を授与された。所有楽器は1707年製ストラディヴァリ“Stella”。