2016年5月28日土曜日

健軍情報64-しずかな朝


健軍教会避難所は今週、
最後の引っ越しシーズンを過ごしてきた。
そして明日の朝、
避難者さんが、礼拝堂に敷かれた最後の布団をたたまれる時、
健軍教会避難所は、しずかに、幕引きの時を迎える。
 
はじまりは、4月14日の夜、
目の悪い高齢のご婦人を、迎えに走ったことだった。
その晩、10名ほどの近隣の方々に教会のホールでお休みいただいたが、
翌朝にはご自宅に戻られる方もあり、1日かけて教会の片付けを終えれば、
それでもう、ひと段落ついた心地であった。
16日未明
 翌夜の本震の後は、そうはいかなかった。
携帯の地震警報と隣接する健軍クリニックの防災警報が
けたたましく鳴り響く中、過呼吸でパニックになる方、
近くに住むお医者さんによる応急対応。
余震に揺れる、割れた食器だらけの建物の中から、
ブルーシートや毛布類を引っ張り出し、
キャンプ用のガスランタンや
近所の方が持ち出してきた灯油ストーブを灯して
近隣の方々と教会の駐車場で夜を明かした。
夜明けが近づいた頃、
アンテナケーブルを延長して、屋外にテレビを持ち出した。
阿蘇大橋崩落の映像を目の当たりにした時、
これからはじまるであろう日々を思って、
あたまがクラクラした。

しかし、まずはペットボトルの水でおにぎりの炊き出し。
教会の表に「避難できます」と張り紙をして、
近隣の方々のための、さしあたっての居場所づくり。
夜には、あるだけの寝具をひっぱりだして、
みなでわけあい、ホールでの雑魚寝となった。
40人くらいはおられただろうか。

その夜、徹夜で執務室の隅に机を確保して、主日の準備。
なんといっても、教会なのだから、
礼拝を通して、この時にふさわしいみ言葉を伝えること。
とにかく、近所の方々にも、教会の方々にも、
安全と安心の両方を提供する役割が、
健軍教会に与えられた使命だったし、
み言葉を語ること、食事の折に、みなのために祈る事も、
みな、そうした働きの一環だった。
4/24の主日礼拝
数日のうちに、水道が復旧し、
礼拝堂は、長いすを使って世帯ごとのスペースが区切られ、
3才から93才まで、30数名の方々が生活する
避難所としての空間が整えられて、
必然的に、礼拝はホールで行われることとなった。
応援物資に頼りながら、40名近い方々に、寝床と共に、
三食の温かい食事を提供しつづけること。
その働きのため、家を失った方々を含めて、
教会員さん方がフル稼働してくださった。
避難所は大きな家族のようになっていった
床の上でではなく食卓について、お茶碗とお箸を使って
仲間といっしょにご飯を食べることができたこと。
そのことは、この避難所で過ごした避難者さんたちが、
他の避難所の方々よりも、少しだけ早く
住宅の確保に動き始めるための、強力な環境要因であったと思う。
そして、この地域で住む場所を求めるとき、
その家探しの初動がわずかに早かったことが、
住宅確保の決定的要因であったし、
それでみんな、この地域に住み続けることが出来たのだった。
新居にて
いくつかの難しいケースもあったものの、
関係者の努力や調整で、みなの安心できる転居先が確保され、
最後の引っ越しシーズンを経て
健軍教会避難所は、強制的閉鎖ではない、自然的な避難者ゼロという、
静かな、そして幸せな最後の日を迎えることができた。
そのことの背景として、
この健軍教会の食卓の豊かさがあったこと。
そのための会員さん方の献身的な働きがあったことを覚えて、
記しておきたい。

連日の引越作業
明日の朝、健軍教会は、
その避難所としての役割を終える。
そしてそれは、この教会の新しい役割のはじまりとなるだろう。
 
しかし、しばしの休息もまた、
許されてよいだろう。
そして、お前は・・・。
 

2016年5月26日木曜日

健軍情報63-がんばりすぎると無理がくる

5/25 夕暮れ
  まだらな日々を生きている。
非日常と日常の入り交じった、まだらな日々。
非日常と日常が、同居してしまっている、まだらな日々だ。
 
地震直後は、だれしも非日常を生きた。
さしおりカラダは無事だったけれど、
今いる家が余震に耐えうるかどうかわからない。
まず、近所の小学校に避難して、
あるいは、車の中で夜を明かして、
カラダの安全を確保することが、
一義的な課題だった。
 
限られた食べ物をわけあって食べ、
トイレの不自由さにも耐えた。
ライフラインの復旧には、地域・建物ごとに個別の事情もあり、
となりの家は水が出ていても、敷地内の漏水やタンクの不調で、
水を使えない人もおり、
ガスは1軒ごとに調査して開栓していくので時間がかかり、
我が家でもかなり長い間、水風呂で精神力を鍛えた。
しかし、次第にライフラインが整い、
余震の回数が減るにつれ、
住む家が整った人から自宅に戻り、
避難所には自宅に戻れない人たちが残されていった。
サンリブ再建は健軍地域住民の願い!

ゴールデンウィークがあけ、学校が再開されると、
生活の再建に向かっていける人と、
避難所に残らざるを得ない人との違いが顕著になった。
仕事が普通に始まり、学校も普通に授業をする。
普通に登校し、普通に仕事をするひとの狭間に、
避難所から通勤する人、車中から登校する子が同居して、
まだらに混じり合っている。
愛児園の園庭からブルーシートの屋根を臨む
仕事についても、震災からの復旧のために、
無理のある形で働いてきて、
そのまま無理のある働き方を続けている人たちの中に、
疲れがたまっている。
最近になって、体調を崩される方が増えてきているのは、
きっと偶然ではない。
 
牧師のようなはっきりしない仕事なら、
仕事の仕方にも多少の調整がきく。
でも、そんな人ばかりではない。
美味しいパンで自分を甘やかす
がんばることは美しいが、がんばりすぎるとどこかで無理が来る。
頑張り続けて来た人たちのまだらな日々の中に、
無理が積み重なっている。

2016年5月22日日曜日

健軍情報62-健軍にて

被害の大きかった江津湖畔 広木地区にて
被災後1ヶ月。
「熊本の人間は、みんな被災者です。
傷が深いか浅いか、それは人それぞれだけれど、
みんな傷を負っているのです」、と言い続けてきたけれど、
そして、確かに今も、そう思っているのだけれど、
ここにきて、人によって異なるその傷の浅さ深さが、
心に引っかかるようになってきた。
 
この熊本市東区健軍の一体は、熊本市の東端にあたる。
ここから東に向かえば、あと2000mほどで、
被害の最も甚大であった益城町に至る。
つまり、ここらあたりが被害の深刻度が大きくなるかどうかの境目で、
西に向かって歩けば、だんだん被害はまばらになり、
東に向かって歩けば、次第に傾いている家が多くなり、
壁が崩落した家が多くなり、そして益城町に入れば、
すぐに道路沿いの倒壊している家屋に目を奪われるようになる。
教会から東にむかって数百メートル
健軍教会のある一帯は、一応建物が立ってはいるので、
一見すると、ほとんど被害がないように見えるだろう。
でも、建物が立ってはいても、危険家屋と判断された物件は多い。
教会の隣家、裏手のアパートやマンション、みんなそうだ。

そしてそれらは、もはや使えない建物で、
住む人、働く人を失ってしまった家屋たちだ。
そこで働いていた人たちは職場を失い、仕事自体を失った人もいる。
そこに住んでいた人たちは、避難所や親の家や親戚宅に身を寄せながら、
仮設住宅に申し込み、不動産屋をめぐって空き物件を探している。
けれども、一瞬の判断に迷い、家探しに一歩出遅れてしまった人たちが、
この地域で、適当な物件に行きあたることは、もはや不可能といっていい。
益城で家を失った人たちが、
少しでも物件のある市内に転入しようと考えるなら、
まず益城町に隣接している東区のこのあたりが第一候補だし、
車社会になって少し寂れてきていたとはいえ、
電車1本で街まで出て行ける健軍一帯は、
便利で住みやすい地域なのだ。
避難者さんの住んでおられた教会裏手のアパートとマンション
このあたりは、もともと
三菱が巨大な飛行機工場の工員を住まわせるために宅地開発した地域で、
水前寺までだった市電を健軍まで延伸させたのも、
工員を工場まで運ぶ必要があった三菱だった。
戦後になって軍閥が解体されると、そうした工員住宅は、
今度は外地からの引き揚げ者住宅となった。
健軍教会の年配の方々が軒並み外地生まれなのは、
そうした地域性とも無関係ではない。
それでこの地域には、そうした親の時代から
住み続けている人たちが多く、地域に対する愛着が深い。
「老人会に逆らっては何も出来ない」、と
冗談交じりに語られる、そんな地域である。
いまの場所から離れてしまえば、子どもは転校しなければならず、
住み慣れた地域社会からも切り離されてしまう。

 とはいえ、狭い親類のアパートで、
人に頭を下げながら生活し続けることにも限界があるし、
プライバシーも確保されない避難所の床で、
思春期の子らを寝起きさせ続けるのも痛ましい。
かといって、「今後も余震に警戒」と云われ続けるなか、
倒壊の危険がある家屋で寝るのは、もっと恐ろしい。
かくして車中泊の人数は減らず、
そうした人たちには、物資や配食も行きわたらない。
それじゃぁ家の修理を頼もう、と思っても、
「順番待ちだから、実際の施行は1年半先になりますよ」、
などと云われてしまっては、
いったいどうすればいいというのか。
熊本ではTVのブルーの枠も残ったまま
そんな自分の事情や生活の痛みを声高に叫ぶのは、
熊本人の流儀に反するし、
東に目を転ずれば、累々とした倒壊家屋の存在が、
自分の不満を吐き出させることを躊躇させる。
だからみんな我慢しているが、こころにたまった不満は、
なくなってしまうのではなく、ただ行き場を失っているにすぎない。
行き場を失った不満は漂流し、時にデマを増幅させ、
時に行政の窓口を困らせ、そして時が経てば、
今度は自分自身の心を蝕むようになるだろう。
 
がんばろう熊本・・・。
たしかにそうだ。
みんながんばって我慢している。
でも、みんなって、誰だろう・・・。
 
長い梅雨が、もうそこまでやってきている。

2016年5月21日土曜日

健軍情報61-思い出を重ねつつ

5/20 江津湖畔

震災後はじめての散髪にいく。
スクーターで5分程の道程だが、
帰りに江津湖畔を通る道を選んだ。
4/14 こさぎ
思えば、最初の地震のあった午後、
教会のご婦人を病院に見舞った後、
あまりに気持ちのよい季節だったので、
病院でお弁当をかって、江津湖畔で、
ベンチに座り、水鳥を眺めながら、
ひとときを過ごしたのだった。
4/14 ベンチでランチをとる
なんと美しくて、なんとのどかで、
なんとぜいたくな街に暮らしているのか、と、
とてもありがたい気持ちで胸がいっぱいになるような、
しあわせな時間だった。
その数時間後に、大地震が起こったのだったが、
今日、江津湖畔を走りながら、その日の午後を
ありありと思い出していた。
5/20 デイケアの迎えを待つ
その日病院に見舞った会員さんご姉妹。
ご自宅のアパートは全壊。
入院先の病院も倒壊の危機あり、で、
教会に連絡があり、避難所でともに5週間を暮らしたが、
ようやく高齢者住宅への入居日が決まった。
今日は、ともに奥村菜乃子さんのバイオリンに耳を傾け、
わかちあいプロジェクト謹製のミルクジェラートに舌鼓をうった。
あと数日を、ともに暮らします。
 
 
BS朝日でも活躍する、熊本出身の奥村菜乃子さん、
めざすはプロの演奏家ではなく、マスコミ志望とのことですが、
とてもよく響くバイオリンを奏でられます。
演奏も、就活も、応援しています!
 
できたしこルーテルと協力しあっている
わかちあいプロジェクトが避難所に送って下さった
「牧場で作ったミルクジェラート」は、フェアトレード商品。
最高に美味しい逸品ですから、ぜひ一度ご賞味を!

-連絡-
5/21の泉ヶ丘小学校での炊き出し
準備の方は16:00教会
配食の方は17:40小学校集合です。
 




2016年5月19日木曜日

健軍情報60-キャッチボール

昨日の夕方、次回の炊き出しの相談に泉ヶ丘小を訪ねると、
うちの避難所の「卒業生」親子が、
夕暮れせまる校庭で、キャッチボールをしていた。
 
「そう、避難所を出て、
こういう日常生活を取り戻していくのだ」、と
心が温かい気持ちになった。
でも、現実には
いまだに1万人近い方々が避難所で生活しておられるし、
この段階で避難所におられる方々には、
本当に住む場所を失ってしまった方々が多いのだ。
 
「今までは、
自分の力で生きていける、という自負があったのだけれど、
今回のことで、
やっぱり人は、助けあわないと生きていけないのだ、
ということがよくわかりました」、といって、
毎回、炊き出しの手伝いに来て下さるこの親子。
 
ひとは、震災の出来事を通しても、新しくなっていく。
 
  
 今日は、九州ルーテル学院大学の礼拝で奉仕し、
「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」、という
ルカ福音書から、み言葉を聴きました。
次回の泉ヶ丘小学校での炊き出しは
5月21日(土)17:30- の予定です。
 

2016年5月18日水曜日

健軍情報59-申し訳ない気分

この日は、神戸国際支縁機構のおふたりが、
カンパと子どもたちへのお菓子を抱えて来訪。感謝。
これから熊本に住んで、生活者として支援する道を
模索していくのだという。なかなか大変そうな話ですが、
東北でも、そのような方法で支援を続けて来たのだそう。

午後、避難者さんの福祉的対応のため、
ケアマネさんと連絡を取り、不動産屋に行き、
区役所にも話をしにいって、
ようやく来週の高齢者住宅への入居が確定した。
ケアマネさんもご本人に話をしに来て下さって、避難者さんもひと安心。
「ひさしぶりに、夕べはゆっくりと寝ることが出来ました」、
とは今朝の弁だが、
やっぱりたくさんの不安を抱えておられたのですね。

夕方から、ルーテル教会の熊本地区牧師会。
被害状況や取り組みの現状についてのわかちあい。
関係学校の被害は億単位ですので、
これはもう、教会の対応できる範囲を超えている。
教会でも数千万単位の被害もあり、
また、最初は大丈夫と思われていた建物でも、
調べてみたら数百万単位での補修の必要が明らかになったりしているので、
全体教会の方針とすりあわせながら、
九州教区としてどうしていくか、
という方針も立てていかねばなりません。
改めて被害状況の正確な把握が必要なことがわかりました。

夜、熊本地区の牧師たちと一席。
震災後、はじめて熊本の街で呑む。
店の中も閑散として、広い店内にお客は3組のみ。
酒席の話題は、「罪悪感」。
罪悪感とまではいかなくても、
また、はっきり口にはださなくても、
なんだか「申し訳ない気分」が蔓延している。

それで、
街でお酒を飲んでいても、申し訳ない、
頑張っている人の話を聞いても、申し訳ない、
避難所の方々の生活を考えると、申し訳ない、
ボランティアさんたちの働きに対しても、申し訳ない、
家に貼られた紙が緑色だったから、申し訳ない、
仕事の景気がよくなってしまって、申し訳ない、
ライフラインが早期に復旧したから、申し訳ない、
他県に避難して今頃かえってきたので、申し訳ない、
家の片付けがあっという間に終わってしまって、申し訳ない、
すぐに住むところが見つかって、申し訳ない、
いろいろお手伝いできていなくて、申し訳ない・・・。
 
いやいや、何も申し訳なくはない。
誰でも、しっかりお店で飲み食いし、
誰でも、しっかり職場で仕事をし、
誰でも、しっかり自分の住処を確保して、
誰でも、しっかり自分と家族を守るということだ。
 
 それは、とっても普通のことなのだから。



 

 

2016年5月17日火曜日

健軍情報58-住みやすい場所に

梅雨時よりも、はるかに高い頻度で雨が降っている。
雨では、「ルターバックスカフェ」への出足は鈍く、
広安愛児園のテント内では、
できたしこルーテルの中核メンバーが、額を寄せ合ってのミーティング。
今後の「できたしこ」の活動の方向性について、
よい話し合いが出来たようです。
 
愛児園避難所では、50人弱の方々が、固定化していく傾向があるようで、
これからの時期、体育館の暑さ対策が課題になってきます。
住むところのない方々が、長期で滞在していくことになりますから
たとえ避難所と云っても、そこでの住環境の整備は大きな問題。
上手に行政とも連携しながら、暮らしやすい環境を整えていくために
「できたしこ」にも、担うべき役割があることでしょう。
 
わたしは、もう少し小さな課題ですが、
健軍教会と連携している泉ヶ丘小学校避難所に、
防虫対策グッズを差し入れました。
雨が降ったあとに気温が上がってくるのですから、
網戸設備のない体育館にとって、防虫対策は必須です。
昨日からお泊まりだったのは、
かつての大学の同級生のフジワラ師。
お互いおっさんの牧師と司祭になってしまいましたが、
20年顔をあわせる機会がなくても、
それでも同志です。
それから、在日大韓基督教会の一行。
旧知の金性済牧師は、いつのまにか総会長になっておられました。
夕方になって、「元避難者」の青年が、
ひっこしの挨拶に寄ってくれました。
今週から、グループホームに転居なさるとのこと。
あちこちひびの入ったマンションの11階には、
もう怖くて住めないですよね。
「昨日は調子が悪くて礼拝に来れなかったけど、
教会に来ると、落ちつくんですよね」、と嬉しいことを云ってくれました。
安心できる場の提供は、
教会が果たすべき、大きな役割です。
そして、ここにも安心しきった寝顔で、
妙に落ちついてしまった方が、もう一匹。
あなたも、ここが住みやすいのかしら・・・。

2016年5月15日日曜日

健軍情報57-帰ってくる日

少しずつ、「卒業」を迎える方が増えて、
だんだん静かになってきていた健軍教会避難所。
でも、今日は日曜日、みんなが教会に帰ってくる日。
震災で来れなくなってしまった方もおられるが、
毎週おいで下さっている方、
避難していた県外から帰ってこられた方、
教会に住むようになっている方、
激励に来て下さる方、
震災を機に、礼拝に戻ってこられる方、
また、健軍教会避難所を、すでに「卒業」なさった方
みな、教会に帰ってきて、ひとつの礼拝に与る。
そこにある出会いの喜び、再会の笑顔、
お互いを案じあう思いやり・・・。
教会は、出かけていく場所ではなく、帰ってくる場所なのだと、
改めて思わされた、震災後5回目、聖霊降臨祭の礼拝であった。
ルーテル学院大の市川先生と九州ルーテル大の西先生
もともとハヤシライスを予定していた、
泉ヶ丘小学校での炊き出し。
今朝になって、富山からたくさんの干物が届いたため、
急遽メニューの変更を連絡。
富山産の美味しい干物をオープンで焼いて、
100人分を提供。
小学校の体育館も、人数が減ってきていたのだが、
自治会の協力もあって、自宅に戻られた近所の方々にも
配布していただくことが出来た。
みんな疲れが溜まってきているのが感じられるが、
なんといっても癒されるのは、
この笑顔!

すでに「卒業」してしまった、 
うちの避難所の「元アイドル」だけれど、
今日は日曜日。
お帰りなさい、教会に!


健軍情報56-嬉しかったこと

あいかわらず、余震が続いている。
1ヶ月間で1400回ということだから、朝から晩まで、
平均すれば30分に1回は、体感できる地震がおきる。
これが1ヶ月間ずーっと続いている、ということだ。
まさに揺れている船の中で生活しているようなもの。
ブログを書いている最中にも、結構体感できる地震が起きる。
日中、立ち歩いたり活動している時間帯は、
震度3でも気づかないことも多いのだが、
寝ているときには、震度2だといわれても、
すごく大きな揺れに思えて飛び起きてしまう。
なんだか、夜ばかり地震が起きる、という話になるのは、
そういうことなのだろう。
 
今日気象庁は、今後2ヶ月は震度6弱の地震に警戒する必要がある、
と発表した。けれど、この発表に落胆し、
さらなる不安と葛藤を抱えこんだ被災者の方々も多かったと思う。
車中泊を続け、おもいきり足を伸ばして寝ることができる日を願いつつ
本当にひび割れだらけの自宅にもどってもいいものかどうか、
判断に迷っている。
そんな方々の中には、やはり車中で粘るほかない、
と思い定められた方も、少なくなかっただろう。

東日本から避難してきた小学生の子どもが、
怖くて家の中には入れないので、家族みんなが車中泊を続けている。
教会で寝ておられる高齢の方の中にも、
就寝中に寝ぼけて、大声を上げられる方がおられる。
みんな不安なのだ。
楽観的な自分の性格が、申し訳ないくらいだ。
 
先行きも見えない中、少しでも安心を与えたいと思うのに、
耳にするニュースは、余震や犯罪など、不安をあおるものばかり。
実際にそこに危険があるのだから、
別に気象庁の発表が悪いわけではないのだけれど。
「1週間は余震に警戒」が、毎日続いて、1週間経った後でも
「なお1週間は余震に警戒」。
そのうちにそれが「2週間程度は余震に警戒」に変わって、
そして「あと2ヶ月は警戒すべき」、と言われてしまったら、
みんなは、いったいいつになったら、自宅に戻れるのか。
そしてわたしは、いったいいつ、本棚に本を入れるべきなのか。
 
さて、昨日に続いてなんだか、しめっぽい記事になってきた。
今日あった嬉しいことを記録しておこう。
ケアマネと区役所との話がうまくいったので、
避難者のおじいさん、来週にはアパートに入居できることになった。
これまで少しずつ経過は報告してきたのだが、
話を聞いたおじいさん、ぱっと表情が明るくなった。
この表情は嬉しかった。
 
地下の水道管が断裂し、自宅の水道が復旧しなかったフィリピン人のお母さん。
何度大家に電話をかけても、順番待ちの一点張りだったのだけれど、
職場の上司に相談したら、水道屋を手配してくれて、
今日になって、ようやく自宅に水道が開通した、との報告。
これも嬉しい。
これで彼女も、ここからの「卒業」の目処が立ったことになる。
 
この3~4日、軽い咳から、しだいに激しい咳へと移行しつつあった
避難者のおばあさん。
昨日、病院に連れて行ってもらい、新しい薬を飲み始めたところ、
てきめんに咳が軽くなってきた。
免疫力はさがっているし、おかゆしか召し上がらない。
肺炎になどに移行したら、年齢的にもややこしいことになりかねない。
早めに受診してもらって正解だった。これも嬉しかった。
土曜日なので、教会員が集まって、礼拝のために教会そうじ。
あちこち整理したり、片付けたり。
高校生になった息子が、電気工具をもってきて
古い家具を解体してくれる。
少し頼もしくなっきた。
教会そうじを終えて、お茶の時間。
会堂にさし込む光が色ガラスを通り、聖壇がカラフルに照らされる。
上田設計事務所の設計意図が、もっとも反映される時間帯。
震度7×2にも、びくともしなかった礼拝堂。
上田憲二郎先生、ありがとうございました。



2016年5月14日土曜日

健軍情報55-片付けられない

熊本で挨拶のように交わしあうセリフが「片付けられない」。
これは、建ち残っている建物が多い今回の震災に
特徴的なセリフではないかと思います。
そもそも、片付ける気がなかなか起きないのです。

ひとつには、まだ調査が継続中であるにもかかわらず、
赤紙、黄紙で立ち残っている家が、
阪神淡路の時よりも、東日本の時よりも、はるかに多いという事実。
片付ける物自体がもはやない、というわけではないことは、
ありがたいことではあるのですが、
「片付けられない」が故に、なかなか事柄が前にはすすまないのです。
もうひとつは、最初の地震が来てせっかく片付けたのに、
次の本震で、さらにめちゃくちゃにされてしまって、
もう片付ける気持ちが折れてしまっている。
わたしの牧師室もこのケースで、前震の後、金曜日まる1日かけて、
かなり「頑張って」ほとんど震災前の状況まで「片付けた」・・・。
にもかかわらず、本震でふたたびご覧のありさま。
いつまた余震があるかもわからない中で、
なかなか本棚に本を詰めていく気持ちにならないのです。
本震の後、息子にバイト代を支払って、ここまで片付けてもらったのですが、
その後がまったくすすんでいません。
この際少し本を減らさなければならないことはわかっているのですが、
処分する本を峻別して、
本棚を組み立てて、転倒防止の処置をして、
そこに再度本を詰めていく。
そこまでの道のりが、はるか遠くに感じられて、なかなか手が付きません。
文字通り「片付けられない」のです。
まぁ、そうはいっても、もう前震から1ヶ月ですし、
すでに牧師の業務にも、いろいろと差し障りがあるのです。
 
さらに、多くの人たちが「片付けられない」理由は、
建物に赤紙や黄紙が貼られていて、余震が続く中で、
中に入って片付ける勇気が湧いてこない。
そしてこの間、雨ばかりでしたから、気持ちも前にすすまなかったのです。

たくさんのボランティアさんが入って下さって、
「手伝いましょうか」と、声をかけてくださっても、
多くの方が「いや、自分でやるから大丈夫です」、と応えられます。
「ひとの世話にならずとも、自分で出来る」、と思っているにもかかわらず、
G.W.開けから仕事や学校も始まって、
なかなか片付けが進まない方は、少なくないと思います。
 
わたしの本棚も、いつ本が入ることになるかわかりませんが、
今一度、「できたしこで」との基本方針を確認しつつ、
その時が満ちるのを待っているところです。
 
なお、今日、訪問した神水教会の集会室には、
「片付け」の道具が、集積されています。
ぞうきん、タオル(新品・中古)、軍手、ゴム付軍手、ゴム長靴(24cm 27cm)、
マスク、ポリ袋、ほうき、ちりとり。
また、その他にもおむつや食料品なども備えてありますから、
神水教会の集会室の利用再開のためにも、積極的にご利用ください。