2010年5月1日土曜日

ほんとうの味方

詩編139篇11-12節

わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。

あなたは、森の中を歩いていました。すると、むこうから動物が一匹やってきました。その動物をやり過ごしてもう少し先に進むと、また一匹動物が出てきました。そして、さらに、森の奥へと進んでいくと、そこで最期に、また違った動物と出会いました。
しばらく前に、こんな心理テストが流行ったことがありました。ちなみに、最初に出会った動物は、まわりの人から見た自分の姿で、その次の動物が、自分自身が思い描いている自分の姿で、最期の動物が、そのどちらでもない、本当の自分である。これで、自分がどんなタイプの人間かということが判るというのです。

まぁ、そんなことをいっても、その時の気分次第で、きっと全然違う動物が思い浮かぶような気もしますし、それに、なんといっても人間というのは、複雑な生き物ですから、こんな簡単な心理テストで、そんなに簡単に人間の本質なんか、わかってたまるか、という気もいたします。けれども、わたしがこの動物の心理テストを面白い、と思ったのは、このテストで本当の自分が判るから、という訳ではありません。そうではなくて、このテストが、自分自身が思い描いている自分の姿の他に、本当の自分自身があるのた。自分が思う自分と、本当の自分は違うのだ、ということを前提にしているところです。

わたしたちは、他の人が見ている自分の姿と、自分自身が考えている自分の姿の間に、大きなギャップがあるのを知っています。また、時には、自分がとてつもなく優秀で、他のひとたちは全く取るに足りないように思えることもありますし、またその逆に、ある時には、他の人たちに比べて、じぶんがあまりにも情けない、ちっぽけな存在に思えて、ひどく落ち込んでしまうこともあります。
けれども、自分が思い描く、そんなふうに揺れ動く自分自身ではなくて、それとは違った、ほんとうの自分がいるのだ、というのです。わたしも、もし、そんな本当の自分がいるのなら、ぜひ、会ってみたいと思いますけれども、その一方で、自分以上に自分自身を知っている、わかっている人なんか、いるわけないじゃないか、と、そういう気もするのです。そして、もし、そんな、自分自身も知らない、ほんとうの自分を知っている人がいるのだとすれば、それは神さま以外にあり得ません。
聖書は、次のような、名もない詩人の言葉を書き残しています。

わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。

これから先、わたしたちはどれだけの年月を生きるのかわかりませんけれども、その人生の途上で、自分が誰からも理解されていない、そして自分自身も、ほとほと自分に嫌気がさしてしまう、そのような出来事が、起こってくるかもしれません。それは、人生の暗闇を歩いているような、そのような時間であることでしょう。そのような、人生の暗闇に佇み、自分自身すら、自分の味方になってやることができないような、たとえそんな時がやってきて、友だちも味方になってくれず、自分でも、自分自身を信じることができない、そのように思える瞬間があったとしても、もうひとりの方が、最期まであなたの味方になってくれる。友だちよりも、自分自身よりも、もっと力強く、もっと信頼できる方が、最期まであなたの味方によってくれるのだと、聖書は、そのような約束を、わたしたちに語ってくれているのです。

2010年4月1日木曜日

健軍ルーテル教会について

 ルーテル教会は、マルチン・ルターによる宗教改革によってうまれたプロテスタントのキリスト教会です。もっとも歴史が古くて規模の大きなプロテスタント教会として、世界中に教会があり、災害支援や社会福祉の分野の世界的な働でも、評価されている教会です。

日本福音ルーテル教会は、宣教が始められてから110余年の歴史があり、九州から北海道まで全国に120余の教会を展開しています。なかでも熊本の教会は、歴史的にその発展の中核を担ってきました。熊本における社会福祉のさきがけである慈愛園や広安愛児園をはじめ、多くの幼稚園・保育園、また九州学院とルーテル学院(旧九州女学院)による学校教育を通しても、地域に奉仕してきました。

その教えは、ルターの宗教改革の伝統に立ち、神さまの恵みを強調します。限界のある人間の力によるのではなく、神さまから与えられる恵みによって、わたしたちは安心して生きることができるようになる、と教えるのです。そしてこの神さまを信じる信仰は、なにより聖書のみ言葉によって養われます。ですから、どうぞ礼拝においで下さい。さまざまな不安にとらわれることの多い私たちですが、礼拝で語られる聖書の言葉を通して、ともに安心して生きることが出来る者とされていきましょう。



健軍ルーテル教会


 健軍ルーテル教会の歴史は、地域の人たちの要請に応えて、米国人宣教師モード・パウラス師が健軍の地に幼稚園(現めぐみ幼稚園)を設立したことにはじまります。1948年には神水教会の伝道所として、現在のめぐみ幼稚園で礼拝がはじめられ、1952年に健軍教会として独立しました。1958年には現在の新生2丁目に移転。会堂を建設しました。現在の新しい礼拝堂は1999年に献堂され、結婚式やコンサート、さまざまな集会や教会バザーなど、地域の方々にも豊かに用いられながら、今日に至っています。
歴史的に、めぐみ幼稚園、熊本ライトハウス、同のぞみホーム、広安愛児園、こどもL.E.Cセンターと深いつながりがあり、現在でもお互いが支えあう関係を大切にしています。
日本福音ルーテル健軍教会
〒862-0908 熊本市東区新生2-1-3 T&F 096-368-2917
郵便振替 《 01960-6-59558 健軍教会 》
kengun(a)jelc.or.jp  <(a)を@に置換>
牧 師  小 泉 基 

関係施設

・ めぐみ幼稚園
http://academic3.plala.or.jp/l-megumi/

・ 熊本ライトハウス(盲ろうあ児施設)

・ 熊本ライトハウスのぞみホーム(知的障害者更生施設)

・ 広安 愛児園(児童養護施設)
http://www1.bbiq.jp/aijien/

・ こどもL.E.C.センター(情緒障害児短期治療施設)
http://www7.ocn.ne.jp/~lec73/index.html

ペンギンの愛

主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。
(詩編 37:23-24)

真っ青な南極の空の広さと、どこまでも続いていく白い氷の世界。その、白と青の美しい大自然のコントラストの中で、何万羽というペンギンが、コロニーを作って、子育てをしている写真があります。わたしは、どことなくすっとぼけた、それでいて威厳も愛嬌もあるその立ち姿を見るにつけ、このようなペンギンの世界に対して、そこはかとない憧れのようなものを感じてきました。

けれども、実際に現地を訪れた人の話によると、そのかわいらしいペンギンたちの足下の氷の中は、何百万、何千万という雛ペンギンや親ペンギンの亡きがらで埋め尽くされているのだそうです。
毎年同じ場所で卵を産み、子育てをするアデリーペンギンのコロニーでは、その年に孵化したヒナのうちの、1/3のヒナは、飢えや寒さによって成長するとができずに、雪と氷の下に埋もれていくのだといいます。そしてそのなきがらは、南極の氷点下の寒さの中で腐敗することなく、毎年、氷の下に堆積していくのです。あのほほえましいペンギン親子の写真の足下には、ぎっしりとペンギンのなきがらが、凍ったまま何重にも折り重なって埋もれている、ということになるのです。

そして、南極のペンギンたちの足下に、写真では見ることができない、死の世界が広がっているように、とても元気に明るく振る舞っているひとが、その実、人知れず心の中に暗闇を抱えている。そして、その闇の深さに苦悩している、ということがあります。そしてそうした心の闇のひろがりは、時折南極の氷にひび割れが起こるように、時として殻を突き破って、外側に表れ出てくるのです。

わたしは昨年、牧師になるための研修として、精神病院への訪問を続けていました。そこで出会った、あるアルコール依存症の患者さんが、そのようなご自身の暗い心の苦悩をわたしに語ってくださったことがありました。その方は、一見とても明るく積極的な性格で、集団行動が多い病棟の生活の中で、他の患者さんたちの模範になるような方でしたし、大勢の患者さんたちの前で、他の患者さんたちを励ますような、おもいやりのある、前向きな話をされるような方でした。まったく理想的な入院患者であって、悩みなどはまったくないかのように振る舞われているその方が、けれども、消灯時間になって夜ベットの上でひとりになると、そのような自分の外面と心の内面のギャップの大きさにたじろいで、自己嫌悪のあまり、おいおいと枕を濡らして泣くのだ、というのです。

アルコール依存症の方々が、自分の内面の弱さと闘いながら、もう一度、お酒を飲まないで、自分自身とその生活を取り戻していくプロセスは、並大抵のことではありません。大半の方は、自分の弱さに勝てずに、再びお酒を飲んで、この治療に失敗していくのだそうです。わたしは、この方の話を聞きながら、その孤独で厳しい、心の内側の葛藤のことを考えて、目もくらむような思いにとらわれたのでした。

しかしわたしたちは、そのような心の闇は、なにもそのような特別な人だけが持っているのではなくて、表面に表れてくるかどうかは別にして、わたしたちひとりひとりが、心の内側にさまざまな形で抱えているものだ、ということを知っています。そしてわたしたちは、時として、その暗闇に傷つき、倒れてしまいそうになります。しかし、先ほどお読みしましたように、何千年も昔の詩人がうたった詩が、聖書に残されているのを、わたしたちは聴くことができます。

主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。

ここでの主というのは、神さまのことであり、またイエスさまのことだと考えてもいいでしょう。自分が抱えている心の闇のために、どうしようもなく倒れ、打ち捨てられるような状況にあったとしても、わたしたちが、神さまへの憧れを持っていくときに、わたしたちは、イエスさまがわたしたちの手を取っていてくださることを知るようになります。
一生を夫婦で添いとげると言われているペンギンが、何万羽ものペンギンの集団の中から、鳴き声一つをたよりに、自分のパートナーを探し出すことが出来るように、神さまは、わたしの中にも、あなたの中にも、闇にうちかつ、神さまへの憧れを、備えていてくださっているからです。

礼拝 Q&A

予約が必要ですか?
必要ありません。礼拝にはどなたでも自由に参加できますから、どうぞ礼拝開始時間に直接お越し下さい。不安なことや質問などがあれば、事前に電話やメールでお問い合わせ下さっても結構です。牧師との面談の希望があれば、礼拝後に牧師までお申し出下さい。

必要な持ち物がありますか?
礼拝には、聖書(新共同訳)、讃美歌(教団讃美歌・教会讃美歌)、式文などを用いますが、礼拝で使うものはすべて教会の受付でお貸しすることができます。もし、ご自分のものがあれば、ぜひお持ち下さい。また教会でお買い求めいただくことも出来ます。

礼拝では何をするのですか?
讃美歌を歌い、聖書の言葉と牧師のメッセージが語られ、献金と祈りがささげられます。神さまに出会う祈りと平安の時です。毎月、第1・第3日曜日には、聖餐式も行われます。礼拝は、初めての方でも、洗礼を受けておられない方でも、とりあえず一度参加してみたい、という方でも、どなたでも参加することが出来ます。あなたのお越しをお待ちしています。


献金とは何ですか?いくらくらいすればいいのですか?
礼拝では、献金が献げられますが、これは献金は神さまへの感謝のしるしとしてささげるものです。お賽銭や参加費ではありませんので、献金なさるかなさらないか、また、いくら献金なさるかもまったくの自由です。礼拝中に緑色のカゴがまわってきますが、任意でささげるものですので、ご用意なさらなかった方は、そのままお隣の方へとおまわし下さい。

集会案内

主日第1礼拝 毎日曜日 午前 6時30分~
主日第2礼拝 毎日曜日 午前 10時30分~
教会の集まりの中心となる礼拝です。6:30からの礼拝は、第1日曜日は教会で、第2~5日曜日は、泉ヶ丘小学校北側のライトハウスのホールで行っています。讃美歌を歌い、聖書のお話しがあり、聖餐式が行われます。
こどもの礼拝 毎日曜日 午前 9時~
子どものための礼拝です。やさしい聖書のお話しがあります。おとなも参加できます。こどもたちは、礼拝後に年令に応じた分級に参加します。
聖書を読む会 毎水曜日 午後 1時30分~
ともに聖書を読み、その内容について牧師が解説します。現在は使徒言行録を学んでいます。
やさしく聖書を読む集い 第1.3水曜日 午後 7時30分~
はじめての方でも参加しやすい、やさしい聖書の学びです。ひとつの聖書の箇所を読んでみんなで考えます。
女性会・壮年会 第3日曜日 礼拝後
 
※ その他、幼い子とお母さんの集い、ティーンズのためのお菓子を作る集まり、青年会、聖歌隊、手芸サークル、茶道サークル、書道サークルなどの活動もおこなわれています。

健軍ルーテル教会

 健軍ルーテル教会の歴史は、地域の人たちの要請に応えて、米国人宣教師モード・パウラス師が健軍の地に幼稚園(現めぐみ幼稚園)を設立したことにはじまります。1948年には神水教会のブランチとして、めぐみ幼稚園で礼拝がはじめられ、1952年に健軍教会として独立しました。1958年には現在の新生2丁目に移転。会堂を建設しました。現在の新しい礼拝堂は1999年に献堂され、結婚式やコンサート、さまざまな集会や教会バザーなど、地域の方々にも豊かに用いられながら、今日に至っています。
 歴史的に、めぐみ幼稚園、熊本ライトハウス、同のぞみホーム、広安愛児園、こどもL.E.Cセンターと深いつながりがあり、現在でもお互いが支えあう関係を大切にしています。

牧師はどんなひと?

現在の牧師は、2004年に着任された小泉基(こいずみもとい)牧師です。牧師の家庭に生まれ、「絶対に牧師にだけはならない」と公言していたにもかかわらず、32才になって前言をひるがえして神学校に入学。牧師となって健軍教会につかわされました。
山口県の宇部市と下関市で育ち、京都で大学を卒業しました。けれどもその後は、学童保育でのアルバイトや中学校での非常勤講師など、定職にも就かずフラフラを続けながら、京都の東九条での地域活動や、教派を超えたキリスト教の青年会活動などに没頭していました。
1996年に京都から東京に移り、神学校に入るまでの5年間は、日本キリスト教協議会(NCC-J)の幹事として働きました。
専門は日本キリスト教史ですが、神学校を卒業後はちっとも勉強できていません。 
趣味は木工を少し。海岸で拾ってきた流木を使って小物を作り、教会のバザーで販売したりもします。お休みには、妻と2人の子どもたちと一緒にキャンプに出かけるのが楽しみですが、あまりお休みがないのが残念。いちどお話ししてみたい、という方は、どうぞ教会までご連絡ください。

住所と電話番号

住所
  〒862-0908
  熊本県熊本市新生2-1-3 

電話(FAX共用)
  096-368-2917

2010年1月10日日曜日

「イエスの洗礼」

 主の洗礼日

「イエスの洗礼」

・ルーテル教会を初めとして、古い聖書の読み方を大切にする教会では、クリスマスを終えて3週間の後に、わたしたちはイエスさまの洗礼を覚えて礼拝を守ります。
・クリスマス以後のこの顕現節という季節は、わたしたちは、救い主としてのイエスさまが、わたしたちの間に現れ出られた、という出来事を覚え、礼拝を守っていくわけです。

・ルカによる福音書では、その冒頭の冒頭に「すべてのことを、順序正しく書」き表す、と書いてあるだけあって、ルカは物事の順序を大切にいたします。
・ですから、現れ出ると云っても、いきなりイエスさまが登場するわけではありません。
・クリスマスの出来事の記述の中でも、ルカによる福音書の構造では、まず洗礼者ヨハネの誕生が予告され、次にイエスさまの誕生が予告され、洗礼者ヨハネの誕生が描かれ、それからイエスさまの誕生が描かれる、というふうに、ルカは、物事の順番を丁寧に追いかけていくわけです。
・ですから、いきなりイエスさまが登場して教えを語られるのではなくて、まずイエスさまの先駆者であるヨハネが荒れ野で教えを語り始めます。
・今日の福音書の日課にも、少し含まれておりましたけれども、ヨハネの教えは非常に力強い教えであって、罪の許しを得させる悔い改めとセットになっておりました。

・イスラエルの民、ユダヤの人々は、自分たちの先祖のアブラハム以来、自分たちの民は神さまから特に選ばれ、守られてきた民である。
・今、この時代は、ローマ帝国の支配下にあって、またその領主であるヘロデのもとで不遇を託っているけれども、神さまは自分たちを見捨てられるような方ではないのだから、きっと近いうちに、あの英雄ダビデのような救い主を送って、自分たちをこの苦境から救い出してくださる、と、そういうふうに信じておりました。
・ですから、人々は神さまの言葉を力強く語るヨハネを目にした時に、「もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考え」たわけです。
・けれども、これで自分たちはこの不幸な時代から救い出されるのではないか、というふうに期待したユダヤの人々に向かって、このヨハネは、自分はそのような救い主ではない。
・わたしは水で洗礼を授けているけれども、その後から来られる「わたしより優れた方が」、「聖霊と火で」あなたたちに洗礼を授けられるのだ、と語りました。
・ところで、「洗礼を授ける」という言葉は、ギリシャ語で「バプティゾー」といいます。
・これは、水に沈めること、あるいは水に浸すことを意味する言葉です。
・ですから、わたしたちルーテル教会でも、あるいはキリスト教会はどこでも、水によって洗礼を授けるわけです。
・けれども、そこでこの水自体の中に、特殊な力が働いているわけではありません。
・前任者である藤井先生は、健軍教会で洗礼式が行われる時には、熊本の中では霊験あらたかな泉だといわれている、ゆるぎが池まで水を汲みに行かれたそうですけれども、別にこの水自体に魔法の力があるわけではない。
・また、頭から水を注ぐ儀式も、わたしたち教会が行うところの人間の業でしかありません。
・ただ、この水を通して、神さまの力が働くのだ、ということをわたしたちが信じる。
・そのことを、わたしたちが信じる時に、その信じるという行為を通して、神さまは私たちに聖霊を送って下さり、わたしたちを罪の苦しみから救いだして下さる、という約束を与えて下さるのです。

・さて、ところがヨハネは、そのように自分は水によって罪の赦しの洗礼を授けながら、自分の後から来られる方は、「聖霊と火」によって洗礼をなさる方だ、といいます。
・そして、わたしたちの教会では、教会が行うところの、水による洗礼 -それ自体は人間の業でしかないわけですけれども、その人間の業であるところの洗礼には、イエスさまの聖霊と火による洗礼が伴っているのだ、ということを信じているのです。

・火というのは、ルカが、使徒言行録の2章でも、聖霊が「炎のような舌」のように降った、と書いていますように、神さまから来る聖霊の働きの力強さの象徴です。
・そして、もうひとつの聖霊のことを、ギリシャ語ではプネウマといいます。
・この存知の方もおられると思いますけれども、これはギリシャ語では、風とか、息とかを意味する言葉です。
・つまり、「聖霊と火による洗礼」というのは、風と火による洗礼だ、というわけです。
・そうしますと、その後の17節で、「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ」、籾殻を火で焼かれる、というふうに書いてあることの意味も、よくわかってきます。

・収穫して、脱穀した麦というのは、まだ籾殻と実とが混ざり合っている。
・それで農夫が、籾殻と実とを選りわけるために、手に箕を持って、それを風に当ててあおるわけです。
・そうすると、軽い籾殻は風に飛ばされて思い麦の実だけが下に落ちていく。
・それで、農夫は、残った麦の実をあつめて倉に入れ、飛ばされた籾殻は火に投げ込んで燃やしてしまうだろう、というわけです。
・ですから洗礼者ヨハネがイメージした「来るべき方」というのは、自分が使う水の中にではなくて、この「風と火による裁きの中に、人々を」沈める。
・そのような方だ、というふうにヨハネは、荒れ野で人々に語った、というわけです。

・さて、このように聖書に書かれた裁きのイメージについて、この説教台から語りますと、みなさんの中には、あぁ、今日はこういう話は聞きたくなかった。
・洗礼者ヨハネの厳しい話ではなくて、やさしいイエスさまの話を聴きたかった、というふうに感じられる方もおられるかもしれません。
・わたしたちの心は、日々の生活の中で色んな出来事にぶつかったり、すり減ったりして疲れてまいりますから、「いや、イエスさまというのは、わたしたちを火の中に放り込むような恐ろしい方ではなく、そうした火の中から救い出して下さる、愛に満ちた方なのだ。これは、聖書がちょっと間違っているのだ」、というふうに、理解したいと思うわけです。

・けれども、もしわたしたちが、「いや、この聖書の記述は間違っている。洗礼者ヨハネは、領主ヘロデをすら恐れないような厳しい人物だったかもしれないけれども、イエスさまはそうではない、ただただやさしい方だったんだ」、というふうに決めつけた、とすれば、どうでしょうか。
・あるいは、「いや、確かにイエスさまは、裁き手としても、この地上にこられたけれども、その裁きというのは、神さまを信じない人たちのためのもので、自分はもう神さまを信じているのだから、信じない人たちが裁かれればいいのだ」、といって、あの律法に縛られたファリサイ派の人々のように、自分を安全地帯に囲い込んだとすれば、どうでしょうか。

・それでは、どちらにしても、神さまがこの世界を愛しておられる、ということから、目をそらすことになってしまうのです。
・愛することの反対は、無関心である、といいます。
・神さまはこの世界が、べつにどんな世界であっても構わない。暴力が横行しようが、人々が傷つけあおうが、そんなことは、どうでもいい、というふうには思われません。
・神さまは、この世界に対して、このわたしについて、無関心ではおられないのです。
・わたしたちに委ねられたこの世界と、そしてこのわたしとを、神さまは力いっぱい愛してくださいます。
・だからこそ、無関心の対極としての、神さまの愛のそのものであるイエスさまを、わたしたちのもとへと送り出されたのです。
・ですからやはり、イエスさまは、神さまの愛の象徴であると同時に、裁きの象徴でもあるのです。

・では、そうだとするなら、わたしたちへの慰めは、どこにあるのでしょうか。
・わたしたちは、何を頼るのでしょうか。

・それは、ここに神さまの深い計画がある、と云ってもよいと思いますけれども、実にイエスさまご自身が、裁く方であると同時に、裁かれる方でもある、という事実の中にあります。
・洗礼者ヨハネは、罪の赦しのための洗礼を人々にさずけました。
・そしてイエスさまは、ご自身が裁きをつかさどる裁き手で方でありながら、罪ある人々とともに、このヨルダンの流れの中にその身を沈め、ご自身がその洗礼を受けられる方となられたのです。

・イエスさまは、日々、罪とともに生きるほかないわたしたちのただ中に身を沈められ、そしてわたしたちと一緒に洗礼を受けられました。
・それは、裁く方であるイエスさまご自身が、わたしたちのところに、裁かれる方としても、こられた、ということを意味しています。

・このイエスさまの洗礼の出来事は、イエスさまの公の生涯の、一番最初に描かれました。
・そして、ここがイエスさまの公生涯の出発点である、ということは、ここがイエスさまの十字架への道の、出発点である、ということです。
・わたしたちの日々の過ちや、不義や、間違った行いというのは、確かに神さまによって裁かれるに値する行いであることに違いないでしょう。
・けれども、そのわたしたちの裁きの場で、イエスさまは、ともに裁かれる方として、わたしたちといっしょに裁かれて下さる。

・そして、わたしたちが受けた洗礼の故に、裁かれるわたしたちになりかわって、イエスさまが、あの十字架への道をあゆんでくださったのです。
・だからこそ、ここにイエスさまご自身が洗礼を受けられたことの意味がありますし、そして、わたしたちが洗礼を受けることの意味があるのです。

・ですから、わたしたちは、この風と火を恐れるのではありません。
・むしろ、この風と火が、わたしたちを神さまへと結びつけてくれる聖霊の働きであることを、ともに喜びあいたいと思うのです。
・この洗礼によって、わたしたちの罪が赦されたことを感謝するのです。

・わたしたちは、ヨハネ以上に、イエスさまの靴のヒモを解く値打ちもない者であります。
・けれども、あえていうなら、そのわたしたちの値打ちのなさの故に、イエスさまはわたしたちに風と火による洗礼を授け、その洗礼によって、わたしたちを神さまと結びつけて、イエスさまの弟子の群れに加えて下さった。
・わたしたちを、そのイエスさまに従って歩む群れとして、聖霊によって教会へと形づくって下さったのです。
・ここに、わたしたちの救いがあります。
・ですから、わたしたちは、わたしたちに与えられた洗礼を喜ぶことが出来ます。
・そして、ただただ、このことを信じて、喜んで、そしてこのわたし自身を、神さまの聖霊の働きへと委ねつつともに歩んでいきたい。
・そのように願うのであります。