2010年4月1日木曜日

ペンギンの愛

主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。
(詩編 37:23-24)

真っ青な南極の空の広さと、どこまでも続いていく白い氷の世界。その、白と青の美しい大自然のコントラストの中で、何万羽というペンギンが、コロニーを作って、子育てをしている写真があります。わたしは、どことなくすっとぼけた、それでいて威厳も愛嬌もあるその立ち姿を見るにつけ、このようなペンギンの世界に対して、そこはかとない憧れのようなものを感じてきました。

けれども、実際に現地を訪れた人の話によると、そのかわいらしいペンギンたちの足下の氷の中は、何百万、何千万という雛ペンギンや親ペンギンの亡きがらで埋め尽くされているのだそうです。
毎年同じ場所で卵を産み、子育てをするアデリーペンギンのコロニーでは、その年に孵化したヒナのうちの、1/3のヒナは、飢えや寒さによって成長するとができずに、雪と氷の下に埋もれていくのだといいます。そしてそのなきがらは、南極の氷点下の寒さの中で腐敗することなく、毎年、氷の下に堆積していくのです。あのほほえましいペンギン親子の写真の足下には、ぎっしりとペンギンのなきがらが、凍ったまま何重にも折り重なって埋もれている、ということになるのです。

そして、南極のペンギンたちの足下に、写真では見ることができない、死の世界が広がっているように、とても元気に明るく振る舞っているひとが、その実、人知れず心の中に暗闇を抱えている。そして、その闇の深さに苦悩している、ということがあります。そしてそうした心の闇のひろがりは、時折南極の氷にひび割れが起こるように、時として殻を突き破って、外側に表れ出てくるのです。

わたしは昨年、牧師になるための研修として、精神病院への訪問を続けていました。そこで出会った、あるアルコール依存症の患者さんが、そのようなご自身の暗い心の苦悩をわたしに語ってくださったことがありました。その方は、一見とても明るく積極的な性格で、集団行動が多い病棟の生活の中で、他の患者さんたちの模範になるような方でしたし、大勢の患者さんたちの前で、他の患者さんたちを励ますような、おもいやりのある、前向きな話をされるような方でした。まったく理想的な入院患者であって、悩みなどはまったくないかのように振る舞われているその方が、けれども、消灯時間になって夜ベットの上でひとりになると、そのような自分の外面と心の内面のギャップの大きさにたじろいで、自己嫌悪のあまり、おいおいと枕を濡らして泣くのだ、というのです。

アルコール依存症の方々が、自分の内面の弱さと闘いながら、もう一度、お酒を飲まないで、自分自身とその生活を取り戻していくプロセスは、並大抵のことではありません。大半の方は、自分の弱さに勝てずに、再びお酒を飲んで、この治療に失敗していくのだそうです。わたしは、この方の話を聞きながら、その孤独で厳しい、心の内側の葛藤のことを考えて、目もくらむような思いにとらわれたのでした。

しかしわたしたちは、そのような心の闇は、なにもそのような特別な人だけが持っているのではなくて、表面に表れてくるかどうかは別にして、わたしたちひとりひとりが、心の内側にさまざまな形で抱えているものだ、ということを知っています。そしてわたしたちは、時として、その暗闇に傷つき、倒れてしまいそうになります。しかし、先ほどお読みしましたように、何千年も昔の詩人がうたった詩が、聖書に残されているのを、わたしたちは聴くことができます。

主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。

ここでの主というのは、神さまのことであり、またイエスさまのことだと考えてもいいでしょう。自分が抱えている心の闇のために、どうしようもなく倒れ、打ち捨てられるような状況にあったとしても、わたしたちが、神さまへの憧れを持っていくときに、わたしたちは、イエスさまがわたしたちの手を取っていてくださることを知るようになります。
一生を夫婦で添いとげると言われているペンギンが、何万羽ものペンギンの集団の中から、鳴き声一つをたよりに、自分のパートナーを探し出すことが出来るように、神さまは、わたしの中にも、あなたの中にも、闇にうちかつ、神さまへの憧れを、備えていてくださっているからです。

0 件のコメント:

コメントを投稿