2017年5月26日金曜日

健軍情報116-宇土さんのポートレート

 災から1年が過ぎた頃、ルーテル教会の被災者支援チームであった「できたしこルーテル」の仲間たちが再び熊本に集まった。熊本での働きを応援してくださった全国の方々に、熊本の今と感謝の思いを伝えるために、フォトムービーを作成しよう、ということになったのだ。みんなで手分けして、チームの働きで出会った方々の写真を撮らせてもらうために熊本を走りまわった。
 その日わたしは、写真を撮らせてもらうために宇土俊作さんを訪問した。宇土さんとの出会いは、昨年4月の17日。熊本で本震のあった翌日のことだ。大江教会の立野先生から、県庁に避難しておられる会員さんが避難先でこの3日間、何も食べていないらしい。先生のところで受け入れてくれないか、と相談があり、九州学院の学生時代からの旧友で、いろいろとお世話をなさっておられた岩﨑國春兄が、健軍教会にお連れくださったのだ。

 くところによると、宇土さんのお父さまは九州学院の教員で、熊本の体育界にその人ありと知られた有名な柔道家だったのだそうだ。なるほど宇土さんも立派な体格をしておられる。けれども、避難所で食糧配給の列に並ぶことが出来なかった、ということからもうかがいしれるように、宇土さんは極端に人付き合いの苦手な方であった。健軍教会避難所にやってこられてからも、食事の時こそみんなといっしょに食卓につきはするものの、終わるとすぐに自分の布団に戻っていかれ、いつも難しい顔をして、ほとんど誰とも会話を交わす様子は見受けられなかった。避難所の初期の頃は、みんな自分のことに必死であったから、そんな宇土さんの様子に気をとめる人も少なかっただろうと思う。
 けれども教会避難所はすぐに解消へとは向かわず、徐々に人数を減らしながら、2週間、1ヶ月と共同生活が続いていくことになったので、宇土さんも少しずつ、避難者さん同士の会話に入ってこられるようになっていった。

 土さんの場合の問題は、水前寺の自宅が全壊したあと、新しく住む場所をなんとかすることであった。なかなか物件の少ない難しい時期ではあったが、知り合いの不動産屋さんを頼って小さなアパートを確保することができ、引っ越しは「できたしこ」のボランティアチームが担った。無事に引っ越しを終えることが出来たのは、5月も終わりが近くなり、避難所解消も目前となっていた頃のことであった。
 この引っ越しのために、一緒に不動産屋をまわったり、生活のための相談をしていく中で、宇土さんは時折、おどろくほどの柔和な表情を見せてくださるようになった。決して口数は多くはないものの、引っ越し先が確定したときには、「これでやっとほっとすることができました」と、肩の荷が下りたような、やわらかい表情をなさったことをよく覚えている。
 また、わたしの息子が九州学院のラグビー部に入部したことを知ると、同じ九学ラグビー部の先輩として、息子の事を気にかけてくださる様子が、そこはかとなく伝わってきた。

 っ越しを終えてからしばらくした頃、新居を訪問した。この時、宇土さんはポツポツと、次のようなことを話してくださった。
 自分は、父親が九学を退職した時分からずっと水前寺の家で暮らしてきた。両親が亡くなった後は妹とふたり暮らしになり、そのあとも長い間、妹とふたりで暮らしてきた。けれど2年前に妹が亡くなってからは独りになってしまい、いろいろなことを思い出しては、ひとりで鬱々とするようになった。気持ちが沈んで、この2年間は、なくなった両親や妹を思い出しては、ずっと沈んだ気持ちですごしてきた。けれども健軍教会での生活は、大勢の人たちとの生活で、ひさしぶりに楽しい思いをすることができたのだ、と。

 震によって家が壊れ、避難生活をしなければならない、というのは辛いことである。その壊れてしまった家が、大好きな両親や妹弟との思い出の詰まった家であるなら、なおさらのことだろう。けれども宇土さんは、避難所の濃密な人間関係の中で、ひととひととがつながる喜びを回復されたようであった。この4月にお訊ねした折にも、ささえりあ(地域包括支援センター)のお世話で、デイケアに通っていることをうれしそうにお話しくださり、とてもおだやかな柔和な表情で、生活が落ちついている、と語られた。そしてそのやさしそうな表情のまま、アパートの自室の前で、フォトムービーのための写真に収まってくださったのだった。その写真に写った宇土さんの手には、「気持ちが落ちつきました。ありがとうございます。」と綴られたメッセージボードが握られている。とてもやさしい笑顔の、宇土さんの数少ないポートレートである。

 のポートレートが、宇土さんの遺影となった。宇土俊作さんは5月24日、脳出血のためにアパートの自室で倒れて帰らぬ人となり、葬儀は5月26日に大江教会で行われた。やさしい表情の宇土さんの写真は、この大江教会の祭壇に飾られた。
 見方によれば宇土さんの死は、地震によってみなし仮設でひとり暮らしをすることになった高齢者の「震災孤独死」である。でも、わたしはそのように一括りにはしたくない。宇土さんは、確かに人付き合いが苦手な方ではあったが、もはや孤独ではなかったことが、この写真の温顔からうかがいしれるからだ。
 実は先日、宇土さんをケアするささえりあの担当者から電話があった。宇土さんが利用したいと希望しておらる、緊急通報システムという福祉サービスの協力員としてお手伝いいただきたい、との依頼の連絡の電話であった。もちろん承諾して書類を送ったが、残念ながら今回は、利用をはじめたばかりの緊急通報システムは、宇土さんの命を救うためには役に立たなかったようだ。けれども、たとえ不器用そうであった宇土さんが、その緊急システムを上手く扱えなかったのだとしても、宇土さんが孤独を抜け出て、ひととひととのつながりに中を生きていたのであれば、これは「孤独死」ではない。
 大好きであったご家族と、思い出の中だけではない再会を果たされた宇土さんが、いまもあの温和な表情のままで神さまのもとにおられることを、わたしは、確かに信じることが出来るのだ。

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